「愛」の正体、そして慈悲へ

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 私は、ブッダの教えである「苦をなくす」ことで誰もが楽に人生を送れるように、ブッダの教えと現代科学の橋渡しになるよう目指してやってきました。それはまさに「ブッダの教えの現代語翻訳」というような作業です。それには、人間の脳の仕組みの解明が必須であり、思っていたよりそこに長い時間がかかってしまいましたが、ようやく全容の解明に一応の区切りをつけるところまで来ました。
 その過程で、脳のしくみをあれこれ考えていたときに、ふっと「愛」の正体が突然わかったのです。それは神がかりでも天から降ってきたのでもなく、ちゃんと考察した末に気付いたのです。もちろん、この気付きが「愛」のすべてということではないにせよ、とても興味深い考察ができたので、ここに示します。「愛」とは何か、「愛」はどこから生まれるのかについて気付きの内容を述べます。そして、なかなかその気になるのが難しい「慈悲心」を育てるヒントも示します。

本能から気付いた「愛」

 まず、「愛」とは何か?
「愛」とは、自己の拡張なのです。説明しますと、

 原始時代の私たち人類は、当時の原野で危険な状況に遭遇した時、身を護る本能が即座に自動で発動するように進化しました。その方法は、「逃げる」か「戦う」ことによって危険回避します。よく「逃走か闘争か」と同じ音だとして強く印象に残ることばです。この時の本能は自動的であり、ほかのどの行為よりも優先され、反射的に作動するように進化し、脳はそのように出来上がっています。これは、全く思考せず自動的に行われる自衛本能です。
 危機的状況をシミュレーションしてみましょう。たとえば大型肉食獣に遭遇した時を考えます。ひとりだったら間に合えば逃げ、逃げるのが無理だったら戦います。これが、成人男性と妻の二人だったらを考えますと、男性は自分より妻の安全のため命を懸けて全力で行動するのです。この時、自衛本能はとっさに思考なしでも自動的に働きます。母子で考えても同じで、お母さんは子供を命を懸けて守る行動をとるはずです。この時の男性や母親はなぜそうできるのかを考えました。本来、本能は自己が生き残ることを優先して最善を尽くすはずだからです。
 なぜ自分でなく妻を命を懸けて守れるのか、なぜ自分でなく子供を命を懸けて守れるのか。それは、男性にとって妻が自分自身だから、母親にとって子供が自分自身だからなのです。彼らは、本能の本来の機能通り、ただ自分を守っているだけなんだと気づきました。つまり”自分という概念の拡張”ということです。日本語に「身内」という言葉がありますが、まさに自分の内に妻を取り込んでいて、危機的状況において自分との境界が無くなり、子供も身の内に取り込んで自分との境界が無くなっているから、妻(子供)を包含した自分をただ守っていただけだと気付いたのです。
 このように、自分という概念が拡張して妻・子供を自分自身だと思い込む意識が「愛」だと思ったのです。そして「愛する」ことは対象の者と自分自身を分けて考えられなくなることなのです。もちろん、目立った発動は「危機」などの状況によるのかもしれません。

「慈悲の心」を完成させるヒント

 このように、「愛する」ことは対象の者と自分自身を分けて考えられなくなることであるとしたら、理解が難しい「慈悲心」を理解する際の方向性が分かります。
 その前に、日本人は、「慈悲」というと「慈悲をかける」ことと思ってしまって、勝手に関係に上下をつくり、それも自分が上と感じ、自分が傲慢じゃないかと思ってしまうのです。一方で『慈悲の瞑想』にある「私の嫌いな人が幸せでありますように」「私を嫌っている人が幸せでありますように」などには、自分の慈悲を嫌いな人に使いたくないと思って瞑想が全然うまくできません。
 そこに、「愛とは対象を身内に取り込むこと」を使うのです。つまり、取り込むために自分を広げると考え「慈悲をかける」とは「自分を広げること」と同じと考えてしまえばいいのです。自分が広がるだけですから上下関係がなくなり、自分の嫌いな人・自分を嫌いな人についても、自分意識がどんどん広がって地球全体を包むくらい大きくなれば、嫌いな人・嫌っている人も勝手に含まれるし、そこに居ても何も支障はありません。こうすれば「慈悲」の内側にみんなが含まれるので、あとは、自分の気を大きく広げて地球規模にできたら『慈悲の瞑想』の完成も間近です。

まとめ

 「愛」は相手を身内と感じる意識であり、意識ゆえにその領域は基本的に自在に拡張できます。また、「慈悲」は愛とは違う概念ですが、自分の気を拡張し範囲を広くとれば、自分の好きな存在と共に嫌いな人に対する慈悲心はすでに備わっていると言えます。ゆえに、嫌いな人に慈悲心を抱く努力をするのではなくて、内側に含むべく自分の気の範囲を広げる努力、そういう方向に瞑想をすれば全てOKなのです。

どうだったでしょうか、「愛」の正体、そして慈悲へ、でした。