無我と非我

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 無我の原語は「anattan(パーリ語)」であり、attan(我,自己)に否定辞のan-が付いたものです。これが、中国で漢訳されたとき、否定の漢字として「無」があてられました。よって中国から伝わった「無我」が日本でも一般的になりました。

 しかし、漢字には否定を表す接頭辞が複数あり、「非」や「否」や「不」でも否定となります。いずれも「あら・ず」と読める漢字です。したがって、anattanは、「非我」や「否我」や「不我」と漢訳してもよかったわけです。意味はいずれも「自分ではない」という意味になります。
 ここで、気付くのはこれらの否定の漢字の中で「無」だけが異質で、「自分は無い」という意味になってしまうのです。つまり、「自分がどこにもいない」という意味です。他の否定辞は「自分にあらず」ですから自覚できている自分ではないけれども、基準である”何か”は「居る」のです。自分の中の”何か”はもう「自分」しかいないのですが…。でも、初期の中国人はなぜか「無」を採用したのです。なぜ「無」にしたのか理由を考えましょう。

無我のほうが神秘的?

 元来、人類は神秘的なことが大好きです。それは、元祖仏教徒のインドの人々であっても、経典を訳して仏教を学んだ中国人であっても、漢訳の経典で仏教を学んだ日本人であっても、みんな神秘的な解釈を好み「無我」=「自分などどこにもいない」を採用したのだと思います。それは、仏教が伝わったごく初期から、深淵なるものとして、「観察してみてください、自分などいないでしょう?」「諸行無常なのですから、自分という固定的なものがあなたの中にいると思いますか?」「感じてください、お釈迦様(ブッダ)の言った通り無我でしょう?」などといって教え、実際に瞑想中にそう感じてきたようです。ましてや、在家信者や初学者が「自分は、自分がいるように思います」などと言おうものなら、怒られて「修行が足りないっ!喝ーっ!」と言われるのです。怒られない場合でも、笑われたりするのです。
 歴史的にそうであっても、私自身は、anattanは「非我」であると見ており「自分ではない」が意味として正解だと思います。瞑想で無我を実感してしまうことに関しても、別の機会に説明しますが、仏教瞑想の本質が「信を作る」ための瞑想と思っていますので無我に信を作ろうとすれば、無我に信を作れてしまうのです。

四諦が証明する非我

 非我であることは、まず、ブッダの教えの根幹である四諦からして明らかです。
 四諦から仏教を解釈すると、第一にして最大の目標は「苦を滅する」ことです。

 ブッダは、苦を滅するためにどんなことをしたのかを考えます。私たちは、科学や医学の発達により「苦」が脳から発生していると知っていますが、ブッダの時代にはまだ知られていません。したがって、自己観察によりその発生場所を探ろうとします。実際に、ブッダは観察によってその場所を客観的に自覚し、分析できたのです。その「苦」が発生する場所こそ自分の中の「自分ではない」=「非我」というわけです。しかし、その場所は実際には「脳」のどこかです。

 さて、「苦」とは「苦しみ」であり仏教では「煩悩」と同義です。煩悩とは、あたまの中(心=脳)に発生しますが、具体的には、「悲しみ」「怒り」「悔しさ」「いやな気持ち」といった数々の感情とも言えます。その感情について考えます。

 感情というのは、目の前で起こった事象に対する心=脳の反応であり、一般には自動的に湧き出てくるものです。一方で、事象が何もないところでは、出そうと思っても自分から感情は出せないし、逆に、湧き出たら止めようと思う間もなく自動で出てきてしまい、まったく止める余地もないのが感情です。もし、日常生活において「怒り」などを自分で抑えられたなら、人間関係も制御でき悩まないでしょう。また、出てきてしまった苦しみに対しても、もし、自分で消すことが出来たらほんとうに悩みません。若いころのブッダは、そう思ったのです。しかし、そううまくいかずに、自分の自由にならない不随意な感情というものが引き起こす悩みを「苦」と言って研究したのです。

手が届かない部分を非我と言った

 このように、自己観察で分かる苦=煩悩=感情は、自分の手が届かない「脳内の非我部分」から自動で湧いて来てしまうようです。ブッダは、出家した後、その苦の仕組みと発生場所を自己観察で発見し、自分の意志ではないのに自動で湧いて来てしまう場所を「自分ではない=anattan」と言ったのです。

 したがって、ブッダの言った”anattan”は、無我ではなく非我なのです。