「自動運転の本能とまやかしの自由意思」について
自分の「気持ち」と「思い」が心にある時、それらは必ず食い違っているのです。食い違いがなければさっさと実行して、もう終わっているはずなのです。
「気持ち」… 大脳が思考のふりして出す衝動
「思い」… 古い脳から経験的に自動で出てきた衝動
「思い」は本能的で自動で湧いて来ます。言わば「思い」というのは衝動的な自動運転の本能のことです。そして、実は「気持ち」も自動運転、正確には ”ほぼ” 自動運転であり、これは大脳の思考さえも考えたふりをした衝動だということです。私たちが思っている ”考えて行為している” 感覚「思考して→行為する」は脳のまやかしの自由意思で、実際は、ちょっと思考してあとは「自動運転」、またちょっと思考してすぐ「自動運転」、というように思考―自動―思考―自動―思考…をくりかえしているのです(≒思考)。それでも古い脳の全自動より自発的な思考と言えなくもないのですが、脳は極力エネルギーを使いたがらない省エネ器官なので、基本的には、既存の記憶を用いて自動運転をしており、最終的に行為となるその直前のものは「自動的な衝動」なのです。これを仏教ではサンカーラ=”行”と言います。
というわけで、「気持ち」(≒思考) も「思い」(衝動) も自動で出てきてしまうもので、意識のおおもととしての自分自身は、≒思考や衝動にほぼ関われないのです。まして、それらが食い違うと、想像するまでもなく以下のように苦しみとなるのです。
「会いたいのに、会えない」
「会いたくないのに、会わなきゃなんない」
「欲しいのに、手にできない」
「食べたいのに、食べられない」
「…のに、…ない」
ゆえに人間の脳は、食い違うのが普通、~なのに~できない「のに・ない脳」なのです。
方便→”のに・ない脳”のせい
「~なのに、~ない」という結果になる ”のに・ない脳” をわたしは方便として使います。
「脳は ”のに・ない脳” なんだから、食い違って苦しいのが普通」
と考えるだけで、いくらか苦は軽くなる。だって、脳の構造がそうなんだからしかたがない。苦しいのは「脳の癖」だ――というのを方便とするのです。
※根本的解決にはブッダの教え四諦八正道をコツコツと…。
・ブッダの教えで根本解決
「四諦を知り八正道を日々実践すれば、ゆっくり古い脳の『思い(衝動)』は”正しく”なる。それが完成するまでの期間は、大脳側では智慧(知識)で『気持ち』を”正す”べし。『思い』が正しくなり、かつ『気持ち』も正しければ食い違いはなくなり、苦は発生しなくなります。これが涅槃。」
・副次的な教え:暫時解決
「ただし、2つの正しさが完成するまではどうしても食い違うゆえ、この時期の苦は諸々の『方便』を使って対処すべし。」
・緊急時の教え:”今ここ”で回避
「”今ここ”の体感によって、ふたつの自動脳から”気付く”ことで一瞬一瞬を奪うヴィパッサナー瞑想により気付きの連続の”ずっと今ここ”で脳を埋め尽くす。」気付きを止めると苦は再燃するが、本当に苦しい緊急時に避難的に使用。